栴檀社

栴檀社の歴史

1. 栴檀社の足跡

栴檀社展は昭和29年に尾上柴舟先生の門人で日展入選者のグループ展として、第1回展銀座松屋で開催した。
尾上先生は栴檀社書展の命名者ではあったが主宰者ではなく賛助出品をされている。
勿論大石隆子先生も同人の一員であった。
この旧栴檀社書展のメンバーとして、杉岡華邨、楢崎華祥、森本妙子諸先生が名を連ねている。
その後、昭和37年に会場を上野松坂屋に移し、昭和48年第18回展まで当初からのメンバーによる展覧会が続く。

それが何故現在のような会派としての栴檀社になったのか。
それは昭和47年11月に栴檀社賛助出品者のお一人であった日比野五鳳先生が幹事役の大石隆子先生に「栴檀社書展のあり方だが、もうあのようなサロン風の展覧会はあまり意味がない。
もっと人材養成に即したものが良いと思う」という主旨のことをおっしゃられた。
その後、大石先生は、ただ作品を展示するだけでなく、競争の原理を取り入れ優秀な人材を育てるということから公募展に切り替えが必要だとの考えに至るのである。

そして、その年のつまり昭和47年の暮れ、恒例になっていた栴檀社書展のメンバーによる忘年会の席で、大石先生から公募展の提案がなされたが、この話は結局折り合いが合わず、実現しなかったのである。
そこで、大石先生は、「栴檀社は私が責任を持ってやっていく」という宣言をすることになり、ともかくも、昭和49年の第19回展から大石一門の展覧会してスタートしたのである。
そして、発足の主旨に向かって昭和54年から門人で日展入選者全員が加わり、昭和55年から東方書展の準同人の直門が加わり、昭和63年からは直門以外の教室からも参加を得て、会場も有楽町マリオンに移して今日のような形になったのである。

これは、すべて日比野先生のご助言に基づいた「清新な人材を養成する栴檀社を作りなさい」という方向を進めてきた結果である。

平成24年3月第58回展を東京銀座画廊美術館で無事開催し、会員一同、草創の主旨を解して歩み続けている。

2. 創設者略歴

大石隆子先生は明治34年東京都に生まれました。
大石隆子先生は東京府立女子師範学校を卒業した後、
尾上柴舟、日下部鳴鶴四天王の一人である丹羽海鶴に師事します。
この両者の影響を受けながら大石隆子先生は自身の書作品を発表し続け日展特選、日本芸術院賞、文部大臣賞を受賞し日展参事、日本かな書道会参与、全日本書津連盟名誉顧門を歴任した後自身の書道団体である栴檀社も主宰した後平成13年99歳で逝去しました。

この時代に女性の書家が名を残すことは大変な苦労だったと思いますが大石隆子先生はかな文字の権威や教本の権威となる書家たちとうまく付き合いながらも自身の書道団体「栴檀社」を設立するまでに至った努力は並大抵のものではないと思います。
大石隆子先生自身は考えてなかったかもしれませんが「女性の自立」というテーマを結果的に体現した書家であり現代の書家にも愛されている書家だと思います。

役員名簿

理事長
大石三世子
副理事長
小島  壽稲田 静子飯田 和子
専務理事
石井 知子浦  恵子久保美代子久保田勝江佐藤 道子真子 照子
常任理事
生駒 哲也井藤 勝子稲田 光暉榎本 和子大石 淑子大村 紫舟小柳津軌代小出 静栄小久保雅子小平 宏子小山 尚子笹脇 省子佐藤 紫千須賀 契子高山美代子谷川ひろ子綱  花水中上 智美濵  和美東野由紀子三原 千翠矢沼智英子山中 聡子渡邊 征恵
理事
青木 睦子伊東 弘子上田 雅子内田 恵子江口 幸子岡本 貞水大塚多賀子笠原 孝子熊木 史子杉本美知子鈴木 初枝鈴木 益美住吉 直子武政 善昭富樫  忍冨澤 満江戸村 道代西村 恭子西本 結景羽賀 煌世橋本さと子服部智恵子弘  真理藤原 彰子三浦 良子村岡 照美山本 秀子
評議員
五十嵐淳子石崎美代子今村 陽子岩崎 芳子植村 佳子太田千代次岡村 正子加藤 久子川島 芳子坂村美智子米田 美樹清 ヨシ子竹内千佳子西 いづみ長谷川直子府川 望茜藤井いづみ前沢由美子宮崎 陽美村田 章子村瀬 梅軒山田 香雪渡辺 秀僊